日本クラブ時代 前回の続き
マンハッタンの中はさすがに住めなかった。やすくて、便利、ということでクイーンズの地下鉄沿線で探すことにした。その当時、1ドル270円、レストランで働くと3000ドルほど皆稼いでいた。円に換算していつも驚いていた。ぼくの仕事は月500ドル、探すところもどんどん物騒なところになっていった。
地下鉄Fトレインのある駅で掘り出し物を見つけた。220ドル/月、早速紹介してもらいオーナーのマスカットさんにあった。彼女がいた僕は連絡をして、了承してもらい、そこにきめた。
「ジャクソンハイツ」、よる仕事を終えて帰るとアパートの入口近くにいつも麻薬をやっている連中がゴロゴロしていて、その人達をまたいで部屋に入っていく時が数年続く。麻薬のメッカだった。そこの思い出は多い。毎日のようにボクの部屋のドアの前に木くずが散らかっていて、少しづつ鍵穴を何かでこじ開けようとされたり、1階にあるクリーニング屋にYシャツを持っていったら、こんなものくらい自分で洗いなさいとやり方を教えてくれたり、人間味のあるところだった。すぐに慣れた。ニューヨークでは6回引っ越した。
心配することはない。
ぼくのニューヨーク 簡略編、 NYに惹かれる若いひとのために。
柴田一佐衛門 略歴
ゆめみる織部工房群
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